篠原有司男年譜 1932-1959

1932年 昭和7年 0歳
1月 17日、東京都千代田区麹町に生まれる。本名牛男。父宮蔵は、短歌人で、若山牧水の弟子。母一江は、女子美術学校を卒業した日本画家

1938年 昭和13年 6歳
4月 番町小学校に入学

1944年 昭和19年12歳
4月 日本大学第二工業学校に入学

1945年 昭和20年13歳
9月 麻布中学校に編入


1949年 昭和24年17歳
   この年、新制作派会員、荻太郎に師事。今井俊満、伊森巌、山内秀臣も同塾に集まる


1950年 昭和25年18歳
9月 「ニ科展で岡本太郎の く森の掟〉 に感激する。」

1952年 昭和27年 20歳
4月 東京芸術大学油絵科に入学(1957年暮に中退)

1954年 昭和29年 22歳
この年、「出版された岡本太郎著 『今日の芸術』 の中の芸術の三原則 『うまくあってはならない・きれいであってはならない・心地よくあってはならない』 を読み、時代を創造するため、いやったらしい芸術を作ろうと心に誓う。」

1955年 昭和30年 23歳
3月 第7回読売日本アンデパンダン展(東京都美術舘 3/1−17)出品
    くライオン狩〉く作品〉

1956年 昭和31年 24歳
   この年、小原久堆、黒木不具人と知り合い、グループ「アルシミスト」を結成。安藤・堀内ユニーク・バレー団の装置を制作。そこで土方巽と知り合う。また、この頃、金森馨と知り合う

1957年 昭和32年 25歳
 3月 第9回読売アンデパンダン展(東京都美術館 2/25−3/15)出品
    [絵画の部]く作品No.4〉く作品No.5〉く作品No.6〉
 6月 「アルシミスト(錬金術士)」展(トキワ画廊 6/10−15)出品
     黒木不具人、小原久雄と
 9月 「フランスの評論家ミッシェル・タピエ、画家今井俊満を招いて、作品を見せる。沢田重隆、野間佳子、田名網敬一も一緒。」

1958年 昭和33年 26歳
3月
第10回読売アンデパンダン展(東京都美術館/3・12−27)出品
[彫刻の部]く熱狂の造形これが芸術だ〉く今日的感覚の超具体的表現〉
「これは近所の竹籠屋からもらった割竹の大束に空ビン、空きカンを縛り付け、絵具、コールタールをたたさつけ、その上になお竹棒を突さきした造形作品。同時に自分の頭髪を真中だけ縦に残してそり落とし、日本初のモヒカン刈りにし、自分自身を造形した。再度来日したミツシェル・タピ工氏は、この第十回読売アンデパンダン展に出品中の新人アーティスト十数人を選び、世界の中の若い日本人芸術家と賛辞を送った。」

6月

個展「ロカビリー画家」く村松画廊 6/3−8)
 6・8ジャズ・バンド付きアクション・ペインティングの実演
「近所の籠屋からわけてもらう、たきつけ用の割竹は、三十円で持ちきれないぐら
 いある。それに−袋六十円の石膏、赤いオーナメントカラー(泥絵具の一種)。酒屋からつけて買ったメリケン粉五袋に古新聞紙。これだけの材料でぼくは彫刻を四点、さらに五メートルの画廊の壁を執るための作品を一点完成した。部分的につけた石膏に、たたきつけられた赤い泥絵具が効果的だ。」(『前衛の道』)
7月 第3回グループ「鋭」展(美松画廊 7/6−10)にゲスト参加
    アクション・ペインティング合同展
   [出品者]堀内袈裟夫、野間伝治、吉野順夫、工藤哲巳

1959年 昭和34年 27歳
2月
第11回読売アンデパンダン展(東京都美術館 2/28−3/15)出品
[彫刻の部]くこうなったらやけくそだ!〉
「準備した竹の大作彫刻は、搬入前日の大雪のため、もろくも崩れ、やって来た運送屋さんに手伝わせ、作り直すがうまく行かず、火を付け、焼さこがし、だんごに固め、ハリガネで縛った。仕方なく、それを都美術館アンパン会場に並べ、題名に くこうなったらやけくそだ!〉 と付けた。評論家滝口修造氏はアンデパンダン展全体にやたら外国作品の安易な模倣が目立ち、又、アンパン生え抜さの世代にみなぎる、既成の形式や描法では解決出来ない不安や欲望をいっきに表現しようとする意欲は解るが、残念ながら、しっかりした造形表現になり得ていないと云い、その極端な例として くこうなったらやけくそだ!〉 を取り上げ、類のない『わるい彫刻』 として記録に値するが、アンデパンダンはこれを避けて通ることは出来ないと評した。」

4月 第9回モダンアート展(東京都美術館 4/1−19)入選

4月 個展(小松画廊 4/14−19)

 


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