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岡本 太郎 年譜
30歳から49歳まで
【1941年 (昭和16年)】 30歳 第28回二科展に滞欧作品 《傷ましき腕》 《リボンを結んだ女》 《コントルポアンの4点を特別出品し、二科賞を受賞。 銀座三越で個展を開催。 《空間1》 《空間2》 《雲》 《コントルポアン》 《リボン幻想》 《リボン》 《リボンを結んだ女》 《机のある静物》 《作家》 《ブーチック・フオレーンヌ(露店)》 《少女》 《花と人》 《花の悲劇》 《傷ましさ腕》 を出品。 【1942年 (昭和17年)】 31歳
一年間の中国・洞庭湖近くの収容所生活を経て復員。 戦火により、青山の自宅にあった作品のすべてを焼失したことを知る。 二科会員に推挙される。
9月 花田清輝らと文学者を中心に 「夜の会」 を結成し、前衛芸術運動を開始。
文化学院で開かれた 「モダン・アート夏期講習会」 (日本アヴァンギャルド美術クラブ主催) で講帥を担当。 若い世代に大きな影響を与える。
8月 花田清輝と共に、自然消滅した 「夜の会」 代わって、美術家を中心とした 「アヴアンギャルド芸術研究会」 を発足させる。
父 一平 死去 (享年62歳)。 2〜3月 読売新聞主催台回日本アンデパンダン展に 《赤い兎》 を出品。
9月 第34回ニ科展に 《重工業》 を出品。 1月 読売新聞社主催の 「現代美術自選代表作十五人」展 に昨年再制作した 《傷ましき腕》 《露店》 等を出品。
第2回日本アンデパンダン展に 《堕天使》 を出品。 開会日に東京美術館の食堂で 「対極主義宣言」 を読み上げて、対極主義協会の結成を呼びかけるが、賛同を得られず流会。
9月 第35回ニ科展に 《森の掟》 を出品。 戦後作品を集めた 「岡本太郎」展 が日本橋・三越で開催される。 東京国立博物館で見た縄文土器に感じた衛撃を、「四次元との対話−縄文土器論」 として 『みづゑ』 に発表。
第4回日本アンデパンダン展に モザイクタイルによる壁画の第1作 《太陽の神話》 を出品。
5月 パリでの 「サロン・ド・メ」展 に 《夜明け》 《堕天使》 を出品。 10月 地下鉄日本橋駅にモザイクタイル壁画 《創生》 を制作。 陶器を使った初めての作品 《顔》 を制作。 11月 翌年にかけてヨーロッパを再訪し、旧友に会う。
パリ・クルーズ画廊で個展を開催。 7月 9月 ニューヨーク・ヒューゴー画廊で個展。 第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表 (17人中の1人) として出品。 第27回 ヴェネチア・ビェンナーレに、日本代表として坂本繁二郎と太郎が選出される。
8月 光文社より 『今日の芸術一時代を創造するものは誰か』 が刊行され、ベストセラーになる。
青山にアトリエを移し、「現代芸術研究所」 を設立。 土岡秀太郎の招きで第7回北美定期美術講習会の講帥をつとめる。 SF映画 「宇宙人東京に現わる」 (島耕作監督) の宇宙人等のデザインも含めた色彩指導をつとめる。
9月 松竹セントラル劇場(中央区築地)1階ロビーにモザイク壁画 《青春》 を制作。
10月 旧東京都庁舎 (丹下健三設計)に11面の陶板レリーフを制作。
11月
アンフォルメルの画家 ジョルジュ・マチュー の公開制作のために、アトリエの庭を提供する。
7〜11月 第11回ミラノ・トリエンナーレに陶板画 《陽》 を出品。
国鉄神田駅地下道に三面のモザイク・タイル壁画 《駆ける》 《遊ぶ》 《花ひらく》 を制作。
【1959年 (昭和34年)】 48歳 東京国立競技場での野外オペラ 「ローエングリン」 (武智鉄演出) の美術を担当。
11月 沖縄に旅行し、「御獄−うたき」 に感動する。
12月 長野県戸倉のスポーツランドにモニュメント 《動物》 を制作。 これより彫刻にも本格的に取り組み始める。
【1960年 (昭和35年)】 49歳 6月 銀座 松屋中央ホールの空間構成として 《真夏の夢》 を制作。 |
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