THE WORLDS OF NAM JUN PAIK
1. INTRODUCTION
序曲
1-2
この本の第1章は 「ソウル・オブ・フルクサス」 である。 構成とパフォーマンスなどに関心をもつ韓国生まれの芸術家としてのパイクの地位についての考察である。 「シネマティックな前衛」は、1960年代70年代における自主制作フィルム実験の概観であり、1960年代中期のビデオを通したニューヨークにおける多様な芸術的環境とのかみ合いや、電子映像の予備研究が背景として書かれてある。 そしてそこではパフォーマンスとフィルムは完全に、テレビやビデオといったパイクの魔術と繋がりを持っていた。 「ナム・ジュン・パイクの凱旋」 では、電子映像の表現的かつ構成的能力を支持し明確にする彼の壮烈な努力を記録し省みている。 パイクは巨大な規則的な構成配列でビデオ画像を設置し、そのことで彫刻形体やインスタレーションの媒介変数に対して完全なる新次元を打ち出した。 彼は自分の深い洞察力を表現するプロセスを通してビデオの手法を転換したのである。 パイクのイメージは前もって決められたものや、ビデオ技術あるいはテレビのシステムに制限されたものではない。 むしろ彼は、プロセスの中で、現実空間とテレビ空間の中での電子映像やその場所の物質性と構成を変え、創造的な表現の新しい形体を定義したのである。
この序曲は、1982年にホイットニー美術館の前で行われたパイクのロボット K-456(1964)の 「アクシデント」で結論づけられる。 パイクはリモート・コントロールのロボットを展覧会場から動かし、マジソン・アヴェニューの歩道へと導いた。 そしてロボットが歩道を渡ろうとしたその時に、車にはねられ、地面に倒れこんだのである。 パイクはこのことが 「20世紀のテクノロジーの破局」 を意味していると、そして、それらの試験的な技術段階から勝ち上ってゆくための教訓は 「私たちはテクノロジーと戦うことを学んでいる」 ということであると言明している。 パイクのイベントは、人類とテクノロジーのもつ儚さに対しての注意を引き出していた。
ビデオ・アートは自然を模倣する。 それは自然のもつ外観や質量ではなく、内的な「時間構造」 という点で行われる。 それは戻ることのできないという意味での、AGINGという時間を重ねてゆくプロセスである。 ノーバート・ウィーナーは彼のレーダー・システム (送受信での閉ざされた時間の分析) という考えの中で、ニュートニアン・タイム (可逆時間)とベルグソニアン・タイム( 不可逆時間)についてのほとんどの難解な思考を行った。 エドモンド・ハッセルは、「内的時間意識の現象学 (1928)」 という彼の講義の中で、聖アウグスティヌスの 「時間とは何か。 誰も私に聞かなければ、私は知っていよう・・・ 誰かが私に聞くのであれば、私は知らないことを知っている。」 を引用している。 20世紀の転換期におけるこのパラドックスは私たちを次のような サルトリアン・パラドックス に結び付けている。
“I am always not what I am and I am always what I am not.”
-Paik,1976
Noguchi