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-CONCEPT- OLD記事



    荒川修作、ネオダダを除名    


 昭和三十五年九月、銀座村松画廊B室で個展を開いた荒川修作を、グループ行動を乱した理由でネオダダでは首にした。  ぼくは事前に個展の相談を彼から受けたとき、最終的にはあくまでも個人プレーだと彼を個展に踏み切らせたのだったが。

 薄暗い室内に並んだふたの閉った棺桶。  鑑賞者はいちいちふたを開けて中をのぞかなければならない。  セメントがまだ柔らかいうちに綿でくるみ、ナイフでサディスティックに亀裂がつけてある。   そんな胎児の死体が紫のフトンを敷きつめた箱の中におさまっている。   題して 「砂の器」。   このじめじめした薄気味悪い個展で彼は決定的なデビューをした。  ネオダダの派手な行動にいささかお手上げだった美術ジャーナリズムがすべて荒川に集中した。

 第十三回(昭和三十六年)から読売アンパンはまた新しい暴風に見まわれることになる。  すでに初期のおつき合い出品の大家たちは消え、その後の第二期新人と称された連中も会場効果を徹底的に計算したぼくらの猛烈な大作の前には影が薄かった。
 だがアンパンとともに育って来たぼくや糸井貫二や工藤哲巳は既成画壇に反逆する唯一のトリデとして、この無審査の展覧会を愛していた。  だが彼らはスキャンダルでいきなりアンパンになぐり込んだのである。その彼らとは、ぼくらを先輩と考え、画壇とは、すなわちアンデパンダン展だと信じ、純粋に芸術の使徒たらんとした若者たちである。




   真黒なドラムカンが会場に三十個

  真黒なドラムカンが三十個、会場の真中に積み上げられ、不幸にも周囲の壁にかけられた絵はぜんぜん見えない。  あわてて他の部屋にかけ変えようとする。  だがその部屋も一万円近くの出品料を払い、一部屋全部を一人の作家が権利を確保してしまっていて駄目だ。  ブタ小屋みたいな建物が会場の各所に立ち、作品をその中に陳列してしまってある。  鑑賞しようにも何が飛び出してくるかこわくてのぞけない。
  一人が委員のぼくの所に飛んで来る。  作品が大きすぎて美術館のどのロを探しても入らないのだ。やむなくノコギリで真二つに切って入れる。  風呂桶が一コ、中に頬かむりをして本物の出刃庖丁を持った強盗の人形が入っている。  題して  「そろそろ出番だ」。   そこへ風倉匠が自転車に乗ってやって来た。  聞くと、その自転車は逆様にして誰かが出品した作品である。


    ネオダダ・グループ蒸発す


 当時土方巽氏が在籍していた、目黒にスタジオのある津田信敏舞踊研究所の女性が五人、ハキだめに鶴の感じでホワイトハウス(吉村益信邸)を訪れた。  吉村益信は、電撃的にその中の一人と滝口修造氏の仲人で結婚し、ネオダダは事実上蒸発した。       思えばわずか九ヶ月たらずの出来事だった。  しかしその後もマスコミの訪問は後をたたず、パーティー、対談、座談会とおいまくられ、はては季節風書店  「一〇〇万人のよる」 のエロ会談まで引受けたが、さすがにこのときは仮名を使った。

 

 

 ぼくは新宿二丁目の ″き~よ″ と名のるモダンジャズ喫茶に毎夜出かけた。  そこには新しい種族がいた。  ビート族。  そこでぼくはダンモのイロハから手ほどきを受け、アートブレーキーから始まり、コールマンまで行くのに一ヶ月はかからなかった。  すぐ顔になった。  午後二時起床のぼくは、二時間ばかり野外アトリエで体操がわりにセメントなどをいじくり、すぐ  ″き~よ″ に向かう。  深夜営業なのでそこを根城に朝六時までねばり、始発電車で朝帰りだ。  夜と昼を取違えた生活が一年続いた。  ビートは世界的流行だったが、日本のマスコミは、彼らにより奇抜な行動を要求した。  小杉武久、刀根康尚、武田明倫らのひきいるグループ音楽の演じる形而上学的イベントから、長髪で睡眠薬をのみツイストに狂って、深夜喫茶で黒人となぐり合う者まで、全部ビート族にしてしまう。  イベント形式の芸術発表は、あらゆる機会と場をとらえて行われた。  だから本場のニューヨークからハプニングの創始者としてさっそうと帰国した小野洋子の草月ホールでの発表会も、日本に荒れくるっていたビート旋風の大波にのみ込まれてしまってショッキングではなかった。

 

 

 むろん上野の東京都美術館のアンパン会場は、雨後のタケノコそこのけにイベントであふれた。  名古屋の0次元グループが三十人ほど、フトンを敷いて横たわっているところに、顔を真白くぬりつぶした中島由紀夫 (現在オランダ滞在) が、オブジェをひきずりながら現われる。  その間を部屋部屋を貫き美術館の玄閑を出て、上野の駅まで高松次郎の麻ひもが張られてしまう。  風倉匠が全裸でロープにぶら下がっているところにカメラマンが集中している。  ふだんは仲の良い美術館の看視のおばさんたちが、半泣きで新聞社の人と駆け廻っている。  知らない人は、それもイベントのひとつかと見つめる。  こちらでは中西夏之のミ二アチュアの食器で最後のバンサンが始まり、とぼけた顔でウズラの目玉焼を食っている。

 読売アンデパンダン展を戦後最大の芸術運動と見なすならば、これらのスキャンダルは、生まれるべくして生まれたのだ。  あらゆる実験作品に寛大にも門戸は開放された。  この危険な芸術の祭典は前衛芸術運動のプロセスを忠実に歩み、到達した勝利の祭典なのだ。  しかしこのアンデパンダンもまた蒸発した。  最後となった第十五回アンパンの会場を見学したジャン・ティンゲリーは、会場ごとに遭遇するハプニングにショックを受けながらも、十数人の作家をピックアップした。  その中で、ソロバンの関根美夫や耳の三木富雄がクローズアップされた。  それは日本の前衛美術界が新しい時代に突入したことを意味した。  コマーシャリズムに対する新たな賭けが始まったのである。

 

 

 

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