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我がデビュー


最夏のニューヨーク。
熱さに気絶した雀がころがり落ち、餌を噛む土鳩が、タクシーにひっかけられパーツと羽毛が舞い上がる。
ヒーと目を背むける老婦人。
だが、ソーホーのシノハラロフトは、今日も大根めしとスイトン(メリケン粉のだんごを薄いみそ汁でうでたやつ)だ。
作り溜めたカードボード製オートバイ彫刻、大小10数点、500 〜1000号大のアクリル絵画が折り重なつてロフトの壁を埋め尽くしてはいるが、まだ1点も売れない。
こんな情況でも制作意欲はモリモリ赤貧とは正反対。

「三枚ください!」

と買って来たケント紙にペンとインクで、

世界をアッ!

と言わっせるぞと描きまくつたドローイングが床に散らばっている。

主題は言わずと知れた、原色のニューヨーク、ダウンタウン風景。
黄色と黒のチェッカータクシー。
チューインガムの包装紙、バーボン酒のラベル、地下鉄の入り口、ここから平安時代のストーリー 行方不明のわが子を探す老婆と伴の仲間。
都会と言うのにペンペン草が生えている。

そしてぼくの大好きなコニーアイランド遊園地、ここはすごい。
後楽園と江の島海岸をひっくるめて、ばかでかくした様だ!騒音の限りを尽くし、ホットドッグとフライドソフトシェルをぱくついた貧乏人軍団。
この風景、喧騒に加え、平安、鎌倉時代の絵巻物。
源氏物語や酒天童子などから、拝借した光源氏や、鳥獣戯画のカエルや兎、十二単のお姫様、あやめ、カキツバタ、三色菱餅が絡まるのだから、

これ以上の興奮が二つとあってたまるけ〜である。

その頃(1982年正月)或日、ジャパンハウスのディレクター、ランド・カスティルさんとアシスタントの大田さんが我がロフトを訪問した。
ジャパンハウスはミッドタウン47丁目国連のすぐそばにあり上流人の大口寄付を基金に日本の極上の伝統文化、例えば京都、奈良の仏像、戦国時代の兜、鎧、禅画、南蛮画などを手の混んだ会場構成でみせる。

まあミニ美術館である。

無論オープニングにはシャンパン。
美術界のトップクラスが集まるところである。

その館長のランドさんが、何でわざわざダウンタウンのゴミ溜ロフトにお越しになったのか?
ジャパンハウスに偶然入った大口の寄付金で、この辺で一発日本の前衛をぶつけて見ようではないか。
なら、シノハラウシオで行けとなったのがいきさつ。

そして、シノハラのカタログ担当がアレクサンドラ・モンロー嬢(現ジャパンハウス画廊ディレクター)であった。
彼女は1960年代の前衛に非常な関心を抱きはじめ、たちまち日本通の一人として、1994年グッゲンハイム美術館で「戦後日本の前衛美術」展を実現させるまでになっている。

赤貧のシノハラロフトにチャンスが舞い込んだのだ。
ソーホーにも貸し画廊はあるが批評の対象にはならない。
一方ディーラー画廊のオーナーは皆鬼のような銭ゲバ。
レオ・キャステリをはじめ、皆アメリカ現代美術の確立に血道をあげヨーロッパに追いつけ追い越せの時代である。
今日のようなアジア・パワー全盛が来るなんて夢にも思ってもいなかった。
無論ぼくも売り込んでは断られる毎日である。

ジャパンハウスでの大個展費用は全部あちらさん持ち、文字通り干天に慈雨。

よし!やるぞと眦を決してはみたものの先立つもの(お銭)が皆無。
それならとランドさんの采配で2,000ドルのチェックが来た。
それからは矢のようなスタートである。

そして半年、とうとうオープニングの日、午後6時開場。
水打ったジャパンハウスの玄関は京都の石庭を思わせる。
入り口のくり抜いた大きな石に水が溜めてあり、何とカキツバタが数本それとなく投げ込んである。
あやめ、カキツバタは今回シノハラ芸術の絵画、彫刻に何度も現れるメインテーマなのだ。
このジャパンハウスで働く人たちの心意気が感じられ、はなから楽しくなるではないか。
しかも館長のランドさんまで、ぼくの大好きなバーボンウイスキー、名はワイルドターキーの瓶を受付の後ろから出して注いでくれるのだ。
ああ一流と一流の心はこれ程通じ合うものかと、感激し通しであった。
オープニングの最中アジア・ソサエティのディレクターがぼくを呼んだ。

「ゲイル・レビンが君の大作『花見』にえらく興味を持っているぜ!」だと。

一体ゲイルとは誰だろう。
3m × 7mの大作「花見」を前に長身の美女が、にこやかに手を差し伸べた。
そしていきなり

「何であなたの絵の中にエドワード・ホッパーの絵から真似た部分が多いのですか?」

「その、あの」

答えはしどろもどろ。

彼女ゲイルは何と1980年ホイットニー美術館で大エドワード・ホッパー展を開いたディレクター、ホッパーの最高権威者ではないか。
エドワード・ホッパー(Edward Hopper)はアメリカの風景の中から現実のアメリカ像を引っぱり出すのに一生を賭けた大物作家で、ジャスパー、ポロックが西の横綱なら東は彼ただ一人。

ヨーロッパ大伝統芸術の影響を一切はね除け、自国の星条旗にこだわり続けたジャスパー・ジョーンズと比肩する。
その彼の作品中の名作「フォーレインロード」すなわち、田舎のガソリンスタンドで夕方おやじが外に椅子を出して夕涼みに、例のぼくの愛する兎と蛙がお茶を一服さし上げる。

だから彼女もあんぐりである。
ぼくは答えた。

「ホッパーは俳句である。小さな言葉で大きな意味を表現している」、
「Hopper is like HAIKU-Small words but big meaning!」

このぼくの答えは1995年のホイットニー美術館「EDWARAD HOPPER AND THE AMERICAN」のカタログに採用されている。
彼女はよほど気に入ったのだろう。

ニューヨークタイムズ、1982年10月1日号のアート欄で批評家グレース・グレッグ女史は

Shinohara's Headlong Collision With American Culture

(アート:シノハラの猛然としたアメリカのカルチャーとの衝突)

の見出しで、その中でも出品作品中最大の「花見」と題する画について。
シノハラ絵画の本当の凄さとは、彼の絵の具に対するあふれるばかりのこだわりである。

これの最も驚くべき証拠として、6枚のパネルで創作された大作(24フイートX 8フィート、約7.2メートル X 2.4メートル)、古い日本が新しいアメリカに出会ったものである。

その漫画的、書を逆手にとった騒々しい大波のイメージは、11世紀に紫式部により書かれた“源氏物語”に見る事ができる。すなわち、日本の木版の様式化された波である。

忠実なドラゴン、桜の花、ニューヨークのイエロウキャブ、ガソリンスタンド、エドワード・ホッパー(この画家が愛する)からの2点の断片だ。
シネスコープ大のコミックのツアード・フォース(注 ツアード・フランスにかけている)が手慣れたドローイング、エネルギッシュな筆使い、巨大な画面を驚くべきコントロールで全てまとめられている。

The New York Times October 1, 1982 By GRACE GLUECK

正にこの個展はぼくの青春真っ只中であったのだ!

ニューヨークはアートのネタに困らない。

ぼくは自身を感動のセールスマンと呼べるのも、ここに居直ってるかもしれない。

 

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花見  1982年  120 × 368 cm

 

 

 

 

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