美術手帳 1984年10月号掲載

[作家訪問]

篠原有司男 -   早く、美しく、リズミカルに……

もちろん人には完璧にできたと言うんだけど―

もうこれ以上わからない、あなたも一緒に見てくれ、と言う部分が必要なんだね。 


【第1回】

 

ソーホーに住んでてよかった……

篠原有司男さん―牛ちゃんというと、わたしたち後から来た人間には六〇年代の一種伝説的な響きを感じますし、当時のネオダダイズム・オルガナイザーズなどについては、篠原さんの名著『前衛の道』(一九六八 美術出版社刊)に詳しいわけですが、このネオダダイズム・オルガナイザーズというのは篠原さんにとってはどういうものだったんですか。 一年ぐらい続いたんでしたか。

 

いや、正確には六カ月。 一九六〇年です。 みんなでワーワー騒いでいるうちに、グループをつくろうということになったわけ。 集まってきたんだけれど、作品を発表したことのないやつや、読売アンパンに一点ぐらい出してたやつや、絵なんか描いたことなくても「絵描きでございます」というようなやつらばかりだったんですよ。 当時ぼくが一番歳上だったこともあって、みんなに.ハッパをかけて新しい芸術をつくろう、とやったわけ。 

 その頃ぼくはサルトル全集を読んでいで、「芸術を武器にして自分たちの発言を世の中にアピールしよう」という具合にサルトルをとったわけだね。 芸術自体を深求するのではなくて、それを使わなければいけないと……。 それにはマスコミを利用しなくちゃいけない、とみんなに言っちゃったわけね。 それでだんだん興奮してきて、その頃たまり場になっていた「ホワイトハウス」という吉村(溢信)のアトリエの近くに酒屋があったので、ツケで飲んでいるうちにああなったんです。 

 

「ネオダダイズム」という名前はどうしてついたんですか。 

 

その頃東野芳明が読売新開かなにかに、ジャスパー・ジョーンズとラウシェンバーグに会い、彼らを指して「ネオ・ダダ」と書いたのを見つけ、それをそのままいただいたんです。 

 

ネオダダイズム・オルガナイザーズという集団は、共通の方向というのをもっていたわけではないんですね。 

 

それはなかったですよ。 あったとすれば酒飲んでどんちゃん騒ぎね。 

 

六〇年代というのはどういう時代でしたか。 

 

アンフォルメルやアクション・ペインティングや、ネオ・ダダやポップアートが、作家と一緒に日本にやってきて、ごく少数だけど勅使河原蒼風のようなインテリの金持ちがバックアップして、草月会館で講演会をやったり……。 ほんものの現代美術が来てそれを見て、ものすごく刺激になったね。 ジョーンズやローゼンクイストたちと、六本木あたりを飲み歩いたっていうわけです。 

 美術雑誌にもその頃からカラーの頁が増えてきたし、みんな丸善やイエナに行って外国の雑誌をいつも見てたね、買えないもんだから……。 みんな、全部雑誌からとって日本で手に入る材料で作ってたんですよ。 赤瀬川じゃないけどぼくらがもってたのはゼロ円札だから、酒屋で買ってきたメリケン粉で新聞紙を固めて、コールタールで塗って、竹で串刺しにした彫刻を作ってたんだからね。 個人的な話だけど、作品を作る態度は今も変わってないですね。 

 

モーターサイクルX-50

1975-1982年

170 x 320 x 100 cm

カードボード・プラスティック・アクリル

篠原さんの彫刻では素材が特徴的ですね。 

 

 

選んだ材料で作家が決まってくるようなところがあるでしょう。 イサム・ノグチなら石とか。 アメリカで石を使って成功してる作家は彼以外にはほとんどいないね。 

 ぼくが使うカードボードは、拾ってきてナイフでバサバサ切ってくっつけるというぼくのファイティング・スピリットとスピードに十分耐えてくれるんですよね。 しかも安いときてる。 だから、一日十ドルあれば八ドルでメシ食って、あと二ドルの材料で汗だくになって制作できる。 こんな材料はほかにはないね。 

 

 


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