ピストル・エアーメール
1993
19 × 32 × 10 cm
カードボード・アクリル・プラスティック
ニューヨークの次郎長
第54回 たこ目、失恋す
久七の運転するトラックは、ブロ-ドウェイを南下、魚河岸方面に向うため、フルトン通りを左折した。
イースト・リバーの河口、遠く自由の女神を望み、蒸気船や三本マストの大型帆船が横付け荷物の積み降しで荷馬車が群がった、昔は活気のあったニューヨークの表玄関、フルトン船着場も、今は不潔な魚臭い地区赤レンガの古ビルばかりで、人は逃げ出してしまいぼろぼろで地下室まで塩水が来ている様な、古酒場が二、三軒、朝四時から開く魚河岸の客相手に開いているが、魚の取り引きで賑わう早朝が過ぎれば、日中は全く寂しい場所だ。
こんな暗いビルの谷間に、トラックを乗り入れた久七は、
「ちぇ! あんな所で、パトカーがサボってやがる、こっちも小休止だ」
とエンジンを切った。 数分で、ポリスは、ビヤー缶を窓から投げ捨てると、明るい道に向って出て行った。 久七は、一つのドアーに車を寄せ、道路に降り立った。
そして入口に立て掛けてある大きな樽をどけ、押開いた。
「こっちだ、皆な入っちまえ、その縄、忘れるな」
正面真すぐに、五階まで伸びた、木製の真暗な階段を、手探りで登ると、三階辺りの右の奥に、小さな明りが見えた。
「よう、フランク、俺だ」
「やあ、人手は充分か、静かにやってくれよ」
がらんとした部屋に、二、三枚、油絵が掛かっているから、こいつも絵描きらしい。 家賃が払えず、このビルに、息を殺して住み、絵を描いているのだ。
もっともこのビルの持主は、この地区が来年、ニューヨーク市再開発の、改造計画に入っていて、取壊しが始まるまでは、見に来ないはずだ。
フランクの指差す次の部屋真中に、ピアノが一台、でんとあった。
「こいつを運ぶんだ、これは誰のものでもない、こんな所に、打っちゃらかすなって、勿体ねえじゃあねえか、そうだろう、俺の店に飾ってやりゃあ、こいつだって大喜びに違えねえ、さ、ぐずぐずしねえで、縄で縛り、下に降すんだ」
「こいつは面白え、俺に任せな」
植木屋あがりの地下足袋の為五郎は、ぱっとピアノに跳び乗ると、慣れた手つきで、太いロープを掛け、指図しながら、真暗な狭い階段を、下に向って、そろそろと動かし始めた。
何せ、時代ものの重いピアノ、ギギー、ドスン、と地響きを立て、その度にびくびくしながら、手すりをへし折り、壁を引っかき、ステップを壊しながら、そろそろと降りて行った。
突然、入口のドアーが開き、二条の懐中電灯の光が走り、
「ヘイ、お前ら、そこで何してるんだ」
「ポリスだ!」
重いピアノを狭い階段で、必死に支えてる六人は身動きが出来ない。 お相撲の綱は、下から四つんばいで背中で支えてるし、地下足袋の為は、上に乗っている。
敬二は頭が、じーんとしびれ、口の中が渇いて来た。 アメリカのポリスは本当に撃って来るから気を付けろ! と日本を出る前の友人の忠告が脳を横切った。
付いて来るんじゃなかった。
「見ろ、だから云ったろ、先にずらかるぜ」
フランクは、裏の窓から、へっぴり腰で、すでに隣のビルに向って、そろそろ逃げ出しはじめた。 そこは彼の、けものみちになってるらしい。
ポリスのシルエットは、だが、二人共拳銃に手をやっていた。
「久七、逃げるんじゃあねえ、こうなったら、お前が素直に話し合って、この場を繕うしかねえ、弱気になり逃げ腰になったら撃たれるぞ、行って来い」
鬼吉にど突かれ、もう後には引けなくなった久七は、うううう、と苦しそうにうめくと、
「アイ・アム・カミング」
と震え声で、ピアノから手を離し、入口に近づいた。
為五郎は、まだピアノの上で、仁王立ち(におうだち)のままだ。 力持ちの久七が離れた、その分だけ、重さが四人に掛って来た。
ううう、敬二は、冷や汗と本汗で、ぐしょぐしょ、目に入っても、ふくことが出来ず、もう前が見えなくなっていた。