パリのアメリカ人
1991
238 × 765(153×5) cm
アクリル・キャンバス
ニューヨークの次郎長
第64回
苺ちゃん、危機一髪
入れ墨事件以後、つき物が落ちた様に、苺は、じっくり、現在自分の置かれている立場を、客観的な目で見つめていた。 だいたい、私のようなガキに、アメリカ画壇を、あっと云わせるような、強力な絵画作品が、一夜漬けで、出来る訳がない。 気が付いて見ると、美大入試失敗直後、ここに来て、絵らしい物は、何も描いていなかった。 ニューヨーク自体の魅力に、引っ張り廻されっぱなしで、美術館や、すぐそばにある画廊で開かれている、現在の時代を築いて行こうとしている、大切な、数数の個展を、ほとんど見逃がしていたし、第一、ニューヨークタイムズ紙の美術欄が、どの週のどのページにあるのかさえ知らない。 次郎長の子分は、誰も、そんな話をしてくれない。 最先端を行く、幾人かの、アメリカ人画家の名前は、知っているが、どこで、どうやってお付合願えるものか、皆目見当が付かない。
苺は、日本で発表経験すら皆無の自分が、いきなり、檜舞台(ひのきぶたい)引っ張り出され、主役を仰(おお)せつかった大板役者だと感じた。 栄五郎は、苺に、画廊の壁に、直接描いて欲しいと提案し、絵具なら、アメリカ製、水性、アクリリック絵具が、近所の絵具足に、馬に喰わせる程あるから、好きなだけ使ってくれ、と云って帰った。 猿の、材料提供の話には、心底、涙を流した苺だったが、今、たかが絵具の多い少ないは、問題ではない。 もっと本質にかかわる重大岐路に直面している自分を、はっきり感じ、ぞっと、冷や汗を流しているのだった。 誰も助けてくれない、自分で何とか切開いて進んでみなければ、しかも数日後までに。 次郎長のロフトに飛び込んでから、これまで暴れまくり、経験した実体験しか、自分を確実に支えてくれるものが無いことも理解出来た。
ここまで思考がたどり着いた時、目が開いた。
単純な方法論だが、これしか無い。 後は、三日で、ウインドーを残す三面の壁を塗りつぶす作業をするだけだ、肉体労働なら、寝なくても、三日は持つ。 これ以上迷うな、途中で考えを変えたらだめだ。 計画は完成し、アイディアはまとまり、後は、それを十二色の絵具に置き替え、筆や、ローラーや、手の平まで動員して、こすり付ければいいだけ。
苺はスタートした。
苺は男であると自称するのだから、ロマンチックなイメージは避けなければならぬ。 この半年間に、自分の目に映った、実際に現存する物体から選んだものを描こう。 一番が、やはり、地下鉄マンハッタンブリッジから見た、壮大な大都会と河口。 それは簡単だ、青と白を大量に塗りたくり、壁の上で混ぜ合せ、大きな、長い柄の筆で、ごしごし、こする様に塗れば、河口と水面が感じられる大きな色面が出来上った、わずか半時間の作業で、正面の大壁面のほとんどを絵具が占めてしまった。 あんずるよりうむがやすし、か。
次は無論、自由の女神だが、女はどうしても描きたくない。 顔を石松さんにしてしまおう。 これなら在日見ているから楽だ。 ディナーテーブル大の石松の大きな鉢巻頗を、赤と黒で描いた。 あまり大き過ぎ、胴と手が。 これは本物そっくりにしなければ、何が何だか解らなくなってしまう。 しかも傾斜を持たせ、今にも倒れそうな美神にした。 ここまでで、第二日が終り、くたくたで、床の寝袋にもぐり込んでしまった。
次の日は、この大西洋に向った河口の真申に、大きな真紅の、真夏の太陽を浴びて腐りかかった苺を、左の壁まで掛かるぐらい巨大で、バスルームぐらいの大きさに描いた。 花とか鳥とか、ましてや雲や、にじは、死んでも描きたくない。 イエローチェッカータクシーが、苺に激突し、乗り上げると、中から、ゴリラ女が、わめきながら、転がり出て来た。
右の壁面は、セントラルパークウエストに在る、自余博物館で見た、天井に届く、骨の恐竜たちの大行進だ。 茶色の絵具の太い線で、三匹のダイナソアーズが、三時間たらずで仕上り、口を開け、見る老を圧倒せんばかりに追って来るではないか。 しかし苺は、ここで止めなかった。 ここまでなら、単なる風景画と変らない。
よし! 有りったけの、カドミニューム・レッド・ライトを手でつかみ出し、恐竜たちのロから、左の石松の顔と、ゴリラ女に向かって、火炎放射器の炎のように、浴びせた。 太い三本の、赤い、どろどろした絵具の流れが、奔流の様に、左側に向って何米も伸び、ぶっ掛かり、跳ね廻り、絵臭が上下に飛び散り、全体を、この大きな三枚の壁面を確(しっ)かり結び合せたのである。
「完成!」
思わず叫んだ苺は、自分が素っ裸であることも忘れて、石松たちが、制作中の、奥の部屋に駆けて行った。