アート用語-ポップアート
最初の本格的なポップアートが出現したのは1961年のころ、ヨーロッパ(主としてロンドン)とニューヨークでだった。しかし、ポップの多くのものは50年代末から大西洋の両側で起こっていたのである。「ポップアート」という名称自体は、最初イギリスの美術批評家ローレンス・アロウェイが1954年にロンドンで、商業広告の「ポピュラー・アート」をさして用いたものである。1956年にはイギリスのアーティスト、リチャード・ハミルトンがコラージュを作り、その中に「ポップ」と書いてあった。アロウェイは1960年代初頭には、今日我々が親しんでいる方法で「ポップアート」という言葉を使い始めた。
1960年代のイギリスでは、アーティストは安物の雑誌から切り取った自動車や入浴する美女などの挿絵を使って、コラージュという古いキュビズムの媒体を大衆文化に転用していた。
1950年代末のアメリカで、最も大きな影響力を誇ったアーティストといえば、おそらくロバート・ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズであろう。2人は、絵に現実のものを貼り付けた。コカコーラの瓶、鳥の剥製、さじ、定規、ビールの缶、新聞、電話帳、椅子、マットレス、電球、そのほか手に入る限りどんなものでも使われた。
ニューヨークのアーティストたちにとって、ポップは、絵画に新しい主題を提供した。純粋に抽象的な絵が10年間続いた後での、主題の回帰は、若くない抽象表現主義世代のアーティストにはショッキングだったが、多くの若いアーティストには刺激的だった。(イギリス人のアーティストは純粋な抽象を本当に受け入れただけに、ポップの到来はロンドンではさほどの驚異とはならなかった)。
ニューヨークでは、アンディ・ウォーホルとロイ・リヒテンシュタインがともに漫画のキャラクターの複製を描くことを始めた。ウォーホールは1960年、リヒテンシュタインは、1961であった。偶然の一致で、2人はともに1961年にポパイの絵を描いた。
ウォーホールは50年代には商業イラストレーターとして成功した。60年代に油彩画を描く決心をし、冷蔵庫、桃の缶詰、コカコーラの瓶、かつら、整形手術の前と後の鼻など、新聞の漫画と広告をそのまま描いたパラフレーズであった。
ウォーホールが作成した最高の作品の多くは60年代に作られ、その多くは美術以外の分野(例えば実験映画)に属する。ついには彼自身が絵にしたマリリン・モンロー、エルビス・プレスリー、ケネディ大統領夫人ジャッキー、エリザベス・テイラーやモナリザと同様の偶像になっていった。
他のポップアーティストもおおむねそのアートによって評判を得た。リヒテンシュタインが漫画を好んだのは、“レディメード”のイメージが得られるからであり、またそれが当時のニューヨーク画壇の規範だった「よい趣味」に挑戦する事になるからである。
ジェームズ・ローゼンクイストは、1950年代に抽象表現主義を学んだが、生計を立てたのは、しばしばタイムズスクェアの上空に聳える足場の上に立って、看板を描くことによってでだった。1960年、大規模な絵を描く技法に徹底的に通暁すると、仕事をやめて自分の作品を書くようになった。
彫刻家クラス・オルデンバーグはありふれた物(煙草の吸いさし、電話機、ケーキ、口紅)を大規模化してモニュメントに変えてしまう。しばしば、硬いもの(電話機など)を、柔らかい彫刻に変えたり、その逆をやったりする。
1950年代から1960年代においてヨーロッパのアートの歴史がアメリカときわめて異なっているのは、戦争体験の違いからである。戦争での爆撃によって瓦礫の山と化したヨーロッパは、廃墟の中から身を起こして文化生活の再建を開始するのに、その後20年間の大半を必要とした。冷蔵庫と自動車は珍しく貴重なものだった。ヨーロッパにもポップアーティストはいたが、彼らは60年代前半にアメリカで享受されていたような物質文明の盛り上がりを祝う事は出来なかった。