美術手帳 1984年10月号掲載
[作家訪問]
篠原有司男
- 早く、美しく、リズミカルに……
もちろん人には完璧にできたと言うんだけど―
もうこれ以上わからない、あなたも一緒に見てくれ、と言う部分が必要なんだね。
【第3回】
興奮させてくれるサブジェクト
▽絵でも彫刻でも、篠原さんの作品には日本的なモチーフがよく登場しますが、そういうモチーフはどういうふうに選ばれるんですか
▼ぼくがニューヨークに住んで十五年になりますが、その間に、アメリカの日本に対する関心や知識というのは、五倍も十倍も増しているということは言えると思う。 文化的には、ロックフェラーなどの大金持ちによる第一次日本ブームというのがあったわけ。 作家で言えば岡田謙三のユーゲニズムを買いまくったり。 そういうのを経てきて、今の若い人たちは 「日本」というと「新宿」とか 「ファッション」とくるんですね。
最初は、アメリカ人がユーゲニズムのような日本にしか関心持ってなくてつまんないなと思ってたんだけど、彼らもだんだんわかってきたみたいだと……。 よしそれじゃシノハラが見たニューヨークのダウンタウンと、作品の中の武器として日本のモチーフを使ってやろうと思ったわけ。 アメリカは二百年、中国は四千年、日本は二千年と、それぞれの財産があるわけでしょう。 その財産としての長い文化の中からひっばり出してきて、今の材料で表現してアメリカのものとぶつけたら面白いんじゃないか、という予想でやってるわけですよ。
ロフトの屋上で制作する作家
撮影 遠藤正
▼最初は、アメリカ人がユーゲニズムのような日本にしか関心持ってなくてつまんないなと思ってたんだけど、彼らもだんだんわかってきたみたいだと……。 よしそれじゃシノハ ラが見たニューヨークのダウンタウンと、作品の中の武器として日本のモチーフを使ってやろうと思ったわけ。アメリカは二百年、中国は四千年、日本は二千年と、それぞれの財産があるわけでしょう。その財産としての長い文化の中からひっばり出してきて、今の材料で表現してアメリカのものとぶつけたら面白いんじゃないか、という予想でやってるわけですよ。
▽昨年今年と久しぶりに日本にお帰りになって、印象はいかがでしたか。
▼行く前と久しぶりに帰った時とでは全然ちがうね、自分自身も東京も。 行く前は日本の中の作家であったわけだけれども、帰ってきた時には日本を見る目が滞米十数年という目に完全になってるね。
東京に関して言えば街がきれいだとか酒はうまくねえなとか、ニューヨークと比較して一言で言えば東京は絵にならない街だなとか―。 描く気はしない。 ニューヨークのほうがきたないしどぎついしカラフルだしね。 何考えてんだかわかんねえようなのがたくさん住んでるし、神秘感が脈打ってくるんだよね。
ただ去年帰った時に京都に連れていってもらったんだけど、これは絵になると思ったね。 アメリカにはばかでかい荒野ーってのはあるけど、二条城などのような切りとられてきたきれいな空間はないんですよ。 すごくわかりやすい空間なのね。 そうして二条城だと、あの大広間に当時の衣装を着せた人形が置いてあるでしょ。 ああいうのを見るとじつにうれしくなるね。 ムラムラっと制作意欲が湧きあがってくる。 あの探幽の絵をとっぱらって金箔にワンダーウーマンをぶつけて、人物は全部よっばらいにして、柱をへし折って……、そうしたらあの空間がじつにイキイキしてくるな、というふうにぼくはとるわけ。
ストロベリー・ライダー
1984
60 x 90 x 40 cm
カードボード・プラスティック・アクリル
▽日本とアメリカをぶつけてみるという意識はありますか。
▼そう、ぶつけるんですよ。 このあいだの東京画廊でのグループ展(「ヒューマン・ドキュメンツ5」)に出品した絵では竜安寺をテーマにしてるんです。 庭のまんなかに大きなチューインガムがドカンとあって、竜安寺の看板をロビンというアメリカのマンガのスターが持ってぶつけてるわけ。 一方ではあぐらをかいたワンダーウーマンがお茶のお点前をうけてる、そういう絵なんですよ。
ときに竜安寺というテーマは、もっとたくさん描こうと思っているんです。 アメリカの知識人たちにとって、竜安寺の石庭というのは、日本の精神文化を語るうえでひとつの象徴となっているんです。 あそこに日本の神秘の凝縮されたものがあると思っているわけ。
石の数は十三だとか、いやあれは十四だったとか、そういうことが文化人たちの間の高級な話題になるのね。 ぼくは近眼だからよくわからないけれど、ああいうものを見るとブルドーザーで穴でも掘りたくなるわけですよ。 とにかくぶっこわさなきゃ、ぐらいに思っている。 アメリカの美術を牛耳ってる連中には日本通が多いんですよ。 だからそういうやつらのハートをつかんで評論の対象となるには、竜安寺なんていうのはじつにいいテーマなんだよね。
アメリカっていう国は批評家が強いパワーをもっているし、どんなに無名でも本物がどこにあるかだけを探して、じつに強い批評をする。 あそこまで行った国のクリティックのよさだね。
ただ、絵っていうのはイマジネーションでもあるけれどもマテリアルを伴うもんだから、テーマは竜安寺でも、絵具をつけた時点からは何が出てくるかはわからないんだよね。
でもシノハラの絵だっていうことはわかる。えらく興奮して描いているなってこともわかる。 ぼくの最終的な本音はそこなのね。 ぼくを駆り立てて、画面に力いっばいぶつけさせてくれる、そういうサブジェクトが欲しいわけ。 そうじゃなければ酒飲んで昼寝してる。そういうレイジーな毎日じやなくて、駆り立てて興奮させてくれるものが必要なんですよね。 そういう意味でも、京都に代表される日本文化と、ダウンタウンの酔っばらいをめいっばいぶつけて―なんていうのは面白くてしようがないんだから。