純情だったあのころ
現在、日本が世界に誇る、前衛芸術家の一人(?)であるぼくは、画に関する思い出も、沢山ある。
小学杖の二年の時からメガネを使用していたくらいだから、天性の、いや、隔世遺伝の典型で、兄弟とも、祖父から強度の近限を受け継いでいた。 子供の時、非常に画がうまかったからといって、将来画家になるとは限らない。
むしろ逆だ。
ねん土細工で、いくら苦労しても、だんごだけしか出来ず、泣いた事もあったが、小学校の担任が画の好きな教師で、図工には、特にカを入れて教えていた。
六時間目の授業のことである。 もう、これがすめば家に帰れると思うとあせる。 ちょうど画の時間で、大きな花びんが黒板の前にでんとあり、五十人あまりの男女生徒が、それを取り囲み、王様クレヨン(当時一番有名なクレヨン) でけんめいに写生していた。
出来ると先生の許可をもらい、一人一人帰れることになっている。 だが見せに行っても、色々なおされて、なかなか一回ではパスしないのである。 無論ぼくが、すぐパスするわけがない。 そのうえ運の悪い事に、ぼくはもう烈に、大便を、もよおしてしまったのだからたまらない。 あせればあせるほど画が出来ない。
"えい、このへんでいいや" と先生に見せに行って、ひょっとモチーフの壷を見て驚いた。 後の席にいたぼくは近視のため、猿と鹿だとばかり思い込んでいた花びんの模様が、なんと唐草模様ではないか。 たちまち、一ぱつ頼ぺたに張られて、描きなおしだ。 残った者は、特に画の下手な奴らとぼくを含んで五、六人だ。 糞がつまり、ひや汗が出はじめた。 現代っ子だったら、授業中にトイレに行くぐらいは、朝飯前だろう。 特にレクリエーションと同じような図工の時間であればなおさらだ。 しかし、当時は、日華事変たけなわの頃で、図工の先生といっても、兵隊の位は伍長まで行った人。 しかも、長身で色あさぐろく、特にぼくたちの二年松組は、スパルタ式教育で鳴らしていたのだった。
女の子でもようしゃしない。
グローブ大の平手打ちをもろにくらって、しがみついている机が、でっと床にぶったおれ、教科書やエンピツが散乱することが、日に五、六回はあった。 暴力教室の逆様だ。
修身の時間、教科書で蝿をはさみつぶしたのを見られ、怒髪天をついた先生にゲンコの雨かと思いきや、いきなりほっぺたを、しやにむにつねり倒された事を思い出す。
まして授業中、便所に行かせろなどと云おうものなら、殺される覚悟がいる。
駄目だ!。 とうとう出てしまった。ずぼんをささえながら、そっと教壇に近づくと、
「先生、うんこ、出ちゃったんです。」
と言った。 おどろいた目つきで、ぼくを眺めていた彼は、
「よし、帰れ。」
と一言。
やっと家にたどりついたぼくを見つけて、近所の悪童どもが遊ぼうと集まって来る。
「ちょっと待て。」!
おふくろに、めちゃくちゃにはり倒されながらも、下着を取りかえたぼくは棒きれを持って遊びの仲間に加わった。
芸大林教室、裸婦の胸に短剣
東京芸大に林教室が出来たのが昭和二十七年で、ぼくらがその第一の恩恵に浴した。 林武と同時に、山口薫が招かれ、下級の一、二年生を指導した。
当時、山口薫は 「花子」 と題する牛の親子を描いた話題作を発表。 隆盛期にあったモダン・アート協会の大黒柱だった
安井曾太郎、梅原龍三郎教授にかわって林、山口、小磯(良平)という在野の新鋭を教授陣に揃え、時代遅れ気味の古くさい美校アカデミズムの風潮はわずかながら改革されようとしていたのである。
入学当初はだれでも石膏デッサンを描かされるが、入試のために百枚以上をこなしているぼくら進藤蕃、佐々木四郎、張替真弘、藤田忠夫、伊藤厳、山内秀臣……など、いまさらマルスだ、ブルータスだ、とはちゃんちゃらおかしい。
ヴィーナスの首を囲んで、あくびたらたらだったが、地方の田舎からめでたく入学した連中は、しつこく食パンを黒だんごに丸める努力をしている。
夏休みの後、いよいよ本番の裸婦だ。 だれでも経験することだが、初めは、まぶしかった。 そして第一回コンクールが近づいた。
一カ月間同じポーズの一枚の裸婦のデッサンを仕上げ、それで成績を判定される。 ぼくは完成した裸婦の胸に短刀を突き立て、血の飛沫を描いたのである。
昭和二十六年、人文書院から、あいついで出版された白井浩司訳のサルトル全集は、当時、心ある若者にとって、胸に突きささった短剣のようにショックだった。
青白いインテリ哲学者サルトルのコンプレックスが逆に、社会への直接参加を説き、造型作品に対しては、絶対美を要求した。
ぼくは裸婦のデッサンに、モナリザ的なあいまいな永遠美の追求をさけ、現実的絶対性を短剣と裸婦という形で定着させたのだ。
入学以前から、荻太郎氏 (新制作協会会員)
のアトリエでぼくにデッサンを指導してくれていた芸大副手の中根寛が飛んで来て、短剣を消せと命じたがゆずらず、二人でわめきながら教官室に入ったが、山口薫氏はぼくに、ゴールデンバットをすすめながら、
「絵というものを、すこしあなたは簡単に考え過ぎている」 と言った。
パリッとした背広姿の久保守、寺田春弌、伊藤廉教授らのにらむ中で、おじけづいたぼくは、しぶしぶ短剣と、画面の真中にでかでか印したサインを消して引きさがってしまった。
教官室に対するうらみはこればかりでなく、のちに卒業間近になって、単位不足のぼくは、卒業制作の採点官である林武に泣きついたが、たずさえて行ったぼくの作品を見たとたん、彼は即時退校を命じたのである。
生徒を絶対に一人前の作家として扱わない、アカデミックな教育方法に、嫌気がさしたぼくは、もっぱら恋愛に夢中になった。
動物園と塀一つはさんだ、芸大の写生用の四季の花が咲き揃う花壇は、学業をさぼったアベック学生が朝からぶらぶらしている。
この花壇族の中には、現在ニューヨークでOP派の先鋭として活躍している、楠本正明、内藤楽子、桑山忠明がいたが、桑山の弟タダスキー(本名・忠祐)は有名である。
ファルコンを頭に乗せた少女
2003年
200cm×220cm
ガッシュ・アクリル・カラーテープ
(TV 「人間発見」で描いた作品)