驚きの校舞
実存主義で焼きを入れられ、鋼鉄のようにカキンカキンに固くなったぼくの頭脳が、すなおに芸大の美術教育を受け入れるはずがないだろう。 それらしい連中は何かピンと来るものがあるのだろう。同じように、学校を遊び場と考え、また今日も誰かに酒代をたかるために、宿酔いでぶらっとやってくる図々しい野郎たち五、六人とたちまち知り合いになると、ぼくはすぐに、芸大のもう一つの顔すなわち、旧美校の伝統を継続し、人生意気に感じ酒を至上の糧とあおぐ、ものすごいもさ連中の中に突入して行ったのである。
「よかちんを始めろ。」
焼酎がまわり出すと黒木は殺気立って来る。 一九五六年、昭和三十一年春、芸大日本画科の先輩黒木不具人(本名・関谷光三)、鍛金の小原庄助(本名・久緒、現在ブラジル在住)とぼくでつくったグループ・アルシミスト(錬金術師)は、酒宴に始まり、酒宴に終ったといえる。 焼酎とススの真黒にしみ込んだ黒木の部屋に、畳は無かった。
ガタピシのガラス戸、はしごを登ると屋根裏の小窓は破れ、きれいな月がのぞいている。 ほこりだらけの本箱、床の間をカーテンで仕切ったベッドからカビくさいフトンが見え、靴のまま寝ているはずだ。 二つに分れた屋根裏からときどきセキがする。 だれか病人が寝ているのだろう。
この上野池の端の黒木宅には毎夜、えたいの知れないボヘミアンたちが集まった。 土方巽(当時、安藤・堀内ユニークバレエ団にいて、マーサ・グラハム系のモダン・ダンスを踊っていた) が靴のまま踊るスパニッシュが鳴りひびき、やせた金森馨(劇団四季の舞台装置家) の大きな限がギラつく。 ひっくり返ったテーブルの焼酎を深沢春夫が、ズーと口で吸ってしまった。 焼酎党には掟がある。
ビール、日本酒、ウイスキーは、堕落だといって絶対に口にしない。 そのかわり小原などは、チュウを飲み過ぎ、胃から出血したとき、馬上盃(当時、新宿にあった酒場)にいた親分黒木に報告、一人前の酒飲みになったと、乾杯したという豪傑である。
「早くよかちんを始めろ、馬鹿野郎。」
よかちん、これこそ美校五十年、今に伝えられる本当の校歌、校舞なのだ。 ぼくが入学した年の秋、運動会が終り、皆で上品に集まって飲んでいるところへ、わめきながら入って来た先輩が二人、テーブルの上にのぼり、ズボンと下着を脱ぎ、男根にハンケチを結んで踊りだしたので女生徒が全員帰ってしまい、あきれて座がしらけてしまったことがあった。 今夜はぼくがいよいよその洗礼を受けなければならない。 全裸にされたぼくは、一升ビンを足にはさみ込まされ、それを抱えながら、一から十までの数え歌に合わせて踊らされた。 ベテランの黒木は腰を折り、長い手足をゆすって、ゆうに三十分ぐらいかかって熱演する。 ぼくのは三分もかからない、マンボ・スタイルだ。 そのうち、どうしたはずみか、拳闘のマネを始めたぼくを見て、小原、深沢、黒木のなぐり合いが起ってしまい、同席した黒木の愛人S嬢の悲鳴の中で、全員取っ組み合いとなってしまった。 翌朝、でこぼこの頭をなでながら、今まで読書と制作にだけ没頭してきたぼくは、建設的なところの微塵もない彼らとのこれからの交友に暗然としたものを感じたのだった。
落選に落選を重ねる
超満員の読売ホールの壇上に現われた岡本太郎は小男だった。 天才は小男だというぽくの珍説がまたしても証明されたのだ。 ゴッホ、バロオ、サルトル、ピカソ、みなしかりだ。
「現代の芸術」というテーマで、この日の講師は、亀倉雄策、土門拳、勅使河原蒼風、丹下健三、剣持勇、それに岡本太郎といった、そうそうたるメンバーだ。 岡本太郎は議論がつまずくと腕まくりしてすごんで叫んだ。
「秋に発表する超大作を見ろ。」
昭和二十九年、 「今日の芸術」 が出版されるや、岡本芸術の三原則が決まり、
″うまくあってはならない″
″きれいであってはならない″
″心地よくあってはならない″
となり、この日読売ホールで、氏じきじきのサインを記した本を買ったぼくは、時代を創造するためには、いやったらしい芸術を作らなければ駄目だ、と心に誓った。 それより以前、昭和二十五年秋の上野の二科展で、ぼくが初めてみた岡本太郎の 「森のおきて」 はすばらしかった。 いまでもその強烈な印象をはっきり思い出すことができるが、チャックの大蛇が弱いものを喰い殺すシーンのその絵は最高で、アメリカン・ポップの原型がそこにあったといえる。
渡仏した今井俊満の最初の記事が、読売新聞に載ったとき、ぼくはすぐ今井の御母堂を、下落合にたずねた。 今井とぼくは、芸大受験当時から荻太郎の弟子であり、同じ釜の飯を食った仲なので、御母堂をよく知っていた。 下落合の今井邸で、タピエ、サム・フランシス、フォートリエらに囲まれた今井の写真を見せられたとき、ぼくらアルシミスト・グループの行動に比べて、世界の檜舞台パリでの彼らに別世界の感を抱いた。 全員タキシードの来訪者の中で、純日本風に紋付、はかまの・スタイリスト今井の笑顔が忘れられない。 「カオス」と題する五十号あまりの文字通り超大作の前は黒山の人だかりで、 「ぜんぜん見えないが、すばらしい作品だ」 とイサム・ノグチ氏がほめてくれたと手紙には書いてあった。
その後、昭和三十二年のある日突然、御母堂からの電話で、今井が、タピエ、サム・フランシスをともなって帰国したから、タピエに作品を見せないかと言われ、仰天した。 ぼくの友人である、グループ ″JUN
″ の沢田重隆、野間佳子、田名網敬一、それにぼくの四人の作品を、上野桜木町の野間さん宅の二階を借りて並べ、そこで見せることにした。ハッスルしたぼくは、当日の朝、彫刻を一点仕上げて持って行ったが、それは、トタンを石でたたきつぶし、材木を突刺し、色紙を千切り、のりでべたべたはりつけたものだった。 ジーパンに黄色のシャツ、首に真赤なハンカチーフを巻きつけたぼくが、 「さあ、山王ホテルまでタピエを迎えに行ってくる」 と言ったら、野間さんのお母さんが、 「そんな格好で大丈夫ですか」 と驚いていた。
ホテルのドアーを開けたぼくを、まだベッドに寝たままのサム・フランシスが、顔を上げて見ていた。 今井はちょうど新聞社に電話中で、こんどの東横の今井・サム二人展は歴史的大事件だから社会部でもあつかえとどなっていた。 ワシ鼻のタピエが鼻をかみながら奥から出て来て、ぼくのさし出した作品の写真を一枚一枚ていねいに眺め、ときどき 「ボン」 を発した。 それから何が入っているのか、ものすごく重いタピエのカバンを持たされ、今井と三人で上野に向かった。
部屋に入ると、タピエはいきなりぼくの彫刻の周りを、ぐるぐる歩き廻りながら、けさ作って搬んで来たのだと聞いて驚いたジェスチュアを示した。 しかし作品としては、沢田の、石膏のマチエールの上にボヤッとした色彩で着色した作品をいちばん熱心に見ていた。 今井はコールタールをゴテゴテ流した田名網のが一番だと帰りがけに言っていた。 前衛評論家タピエの関心を少しも惹かなかったことは、ぼくに大きなショックを与えた。 この彫刻を、新制作展の公募期間だったので搬入したが、ここでも落選。 しかしサンデー毎日に審査風景が載り、ぼくの作品を、美しい裸婦彫刻の間にがらくたを集めて作ったものすごい作品とあり、おもわず微笑した。
そうだ、入選しなくても人目を惹きつけたことに変わりはない。ちなみにぼくの公募展落選歴は、二科四回、新制作二回、自由美術一回、シェル賞、汎大平洋青年美術家展、毎日現代展など十数回に及び、入選は昭和三十三年のモダンアート展一回のみ。 週刊誌に小さく載ったことが、公募展審査員に冷たくされ続けていたぼくに大きな自信をつけ、その後の芸術活動の方向が画壇以外のジャ-ナリズムに向けられ、制作する作品も思い切って、センセーショナルなテーマ、方法を選ぶようになったのである。
インカパレードと首を従えた首切人
2003年
200cm×220cm
ガッシュ・アクリル・カラーテープ・金箔