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-CONCEPT-OLD記事


 

 

  アンフォルメルのショックと感激


 「走れ庄助!」 友人の小原庄助とぼくがたどり着いたときは、すでに白木屋のウィンドウの中は黒山の人だかりでぜんぜん見えなかった。


 その前年昭和三十一年の秋、「世界・今日の美術展」と銘うって、ミシェル・タピエの主導する、シニフィアン・ド・ランフォルメル(signifant de l'informel)の全貌が花開いた。  日本橋高島屋七階の展示場は若者の熱気であふれていた。  育ち盛りのぼくらにとって大御所フォートリエをはじめ、フォンタナ、クリッパ、アルツング、シュネーデル、マツタ、ラム、アベル、タジリ、サム、マチウと来たのだからたまらない。  まさにバイキング料理だ。  あせって喰いついた。  そこにはあらゆる色彩、スタイル、方法が満ちあふれている。  どれを真似するかだけが問題なのだ。


 評論家滝口修造氏が、第九回読売アンデパンダン展評の中で、一種異様なエネルギーのようなものがのたうち廻っている、だがすべてが芸術的エネルギーばかりだとはいえない、と世界・今日の美街展、すなわちアンフォルメルの影響の素早さを指摘し、驚いたことに、大作や会場効果をねらった作品に対し早くもアンパンの危機を予見してしまっていたことを思い出す。

 

 

 

読売新聞(夕刊)1958年4月3日より

 

 


 アンフォルメルのショックも覚めやらぬ翌年、こんどはタピエが画家マチウ本人をともない来日し、しかもアクション・ペインティングの何たるかを日本のファンの前でお目にかけようというのである。  マチウは日本橋白木屋のウィンドウの中に横十メートルのカンバスを用意し実演した。  これにはぼくでなくても走り出して見に行くはずだ。  庄助とぼくは街路樹に登っていまや遅しと待ちかまえた。  現われたジョルジュ・マチウは浴衣にたすき、赤いはち巻に白たびといった演出効果満点の仇討のような姿で、黒山のようなカメラマンや見物人をひとわたり見廻すと、実存主義風のアゴヒゲを生やした今井俊満がそばで溶く絵具をとっぷりつけた筆を左手に、口でふたをねじ切ったチューブを右手に、二刀流でカンバスに飛び掛って行った。  岡本太郎の三原則がいやったらしさなら、マチウのは、   直接、スピード、興奮   である。  銀蠅のように群がるカメラマン。  マチウの動きが激しくなるたびに、滝のようにシャッターが切られる。  ″これだ″これが現代の画家の真の姿であるはずだ。  夕陽をもろに浴びながら街路樹の上でぼくは、自分をマチウと置き換えひとりで興奮した。



週間サンケイ1958年4月27日号より

 


    モヒカン刈りで売込む


 「よし、うちで取材しましょう。」


 くたくたに疲れたぼくが最後にたどり着いたのは、親戚の者が勤務する週刊サンケイ編集部だった。  朝日、毎日、読売、新潮社その他と売込みに失敗し、あきらめて電車賃を借りによってみたのだ。デスクのひとの 「どこでその頭を刈ったか」 という質問に、 「米倉」 と答えた。  米倉は銀座一の高級床屋でむろんぼくは見たこともない。  だが、驚いたデスクは、 「三日に一ペン三百五十円なり」 とコピーを付けた。  そのときのぼくの頭髪、有名な一本線刈り、すなわち  ″モヒカン刈り″の起りは、まったく偶然。  仲間の小原庄助とそば屋の二階で、ふざけて五円の安全カミソリでそり上げたもの。  渋谷の風月堂に田名網敬一を呼び出して見せたところ、驚いてコーヒーをひっくり返してしまった。  自分自身を造型する前衛画家というタイトルで、染料をぶっかけたシャツ、細工したズボンとともにぼくは売込みを開始したのだ。


「エイヤー。」

 

週間サンケイ1958年4月27日号より 

 

 


  武蔵野の一角、楓のそびえる三百坪あまりの野外アトリエ、寒風がそり立ての頭に痛い。  割竹を素材としたオブジェにガラクタを突刺し、絵具をびんどとたたきつける。  飛び散る原色、まるでインデアンの襲撃だ。  マチウの場合と違い、長身のカメラマンがただ一人、小きざみに切るシャッターの音が閑散とした空地に響く。  次は床屋のシーンだ。  頭にカミソリをあてているところを一枚、あとは出来た作品を美術館に搬入するところを撮ろう。  ガラスの破片まで付いているぼくの作品を見て読売アンデパンダン展の受付の連中が、危険だとごねているところヘ、当時読売新聞企画部の平川富太郎氏が出て来て、ぼくの作品に大いに共鳴し、今回のメインエベントだと喜び、彫刻室中央に植木をはさんで並べたので最高に見ばえがした。  題名も 「熱狂の造形、これが芸術だ」 とオーバーなものにした。


  昭和三十三年、読売アンデパンダソ展も回を重ね、第十回ともなると創立期の作家が姿を消しぜんぜん既成画壇に関係の無い素人作家が秋の公募展に対抗し、春の美術シーズン幕開きを飾るこのアンパンに全精力、全エネルギーを傾け、超大作、異色作をどしどし送り込むので、無審査とはいえ会場にあふれる熱気は、いまや芸術ジャーナリズムの無視出来ぬ大展覧会に成長してしまっていた。  作品点数も三千点になんなんとし、全会場を彫刻室を含めて天井近くまで埋めつくしてしまっている。  読売新開も初めの頃は作家や有名知識人の感想や、印象批評めいた記事でお茶を濁していたが、いまや専門批評家の作家論を会期中連続して載せ、最後に滝口修造氏の総評で幕を閉じる格好になっていた。  だがまだ今回までは何らかの形で、既成画壇に実績を持つ新人とはいえない抽象派系の大家中堅連中に批評が集中しがちで、膨大なこの素人作家の異色作品群に対し、どう扱ってよいか解らないといったきわめて曖昧な態度の美術ジャーナリズムに対し、晴天へきれきの一矢を放った批評家が、再度の来日をタイムリーにも読売アンパンの会期中に定めたアンフォルメルの組織者ミシェル・タピエ氏であった。



 

 

三日おきに床屋通いグッといかすヘヤ―スタイルは350円也 ロカビリー画家も家へ帰れば母親に甘える腕白坊主に一変する。

 

週間サンケイ1958年4月27日号より 

 

 

 

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