ラウシェンバーグとぼく
公開質問会に出場する
大物中の大物、一九六四年のベネチア・ビエソナーレでの劇的逆転ホーマーで大賞をさらい、アメリカに初めてグランプリをもたらした戦後前衛画壇最大の若き巨匠ロバート・ラウシェンバ-グが、ダンスのマース・カニングハムの美術監督として来日したのは、その年の年末近くだった。 そして、それを機会に「ラウシェンバーグヘの公開質問会」が開催された。
東京赤坂の草月会館ホールに集まった五百人あまりの、飢え切った育ち盛りの日本画壇予備軍の前で、オレンジ割りのウイスキーをがぶ飲みしながら、女性を混じえた三人のアシスタントといっしょに、ラウシェンバーグはどこから引っぱり出したのか日本人のぼくらもあまりお目にかかったことのない、伝統的日本画のタブロ-である六曲一双の金屏風に、ドリルを使って汗だくで挑戦中だ。
昭和三十九年一月、「反芸術、是か非か」の討論会で若者たちの間にセンセーションをまき起した批評家・東野芳明氏企画の第二回公開討論会である。
ラウシェンバーグといえば、彼の作品は原色版で、デビュー作、山羊の胸に自動車のタイヤを巻きつけ絵具をべたべたなすりつけた 「モノグラム」 をはじめ、ほとんどの作品が日本に紹介され、ぼくらにとってそのたびに、この斜陽の画壇に新しいファイトをみなぎらせる原動力となっていたのだ。 とくに彼のハプニングをタブロー化したような既成オブジェ、たとえば扇風機、折れた交通信号、剥製の鳥などの大たんな使用は、もうこれ以上新しい作品は想像できないようなショックをぼくらに与えていたのだ。
その世界的な彼が、われわれの質問に答えようというのだから、嬉しくならないやつはバカだ。 山のような質問をかかえ、むし暑い小さな草月会館ホールに集まった聴衆は、いまやおそしと薄暗い舞台を見まもった。
しかし、みんなのふくらんだ期待も簡単にふっ飛んだ。 舞台で本番がいきなり始まり、集められたぼくらの、苦労してねん出し、選ばれたとっておきの質問は、会場の電話を通じて舞台横手の司会者・東野氏の席に送られたが、それはラウシェンバーグの耳に入るまでに、作曲家・一柳慧氏のブレーキングマシンなるものを通過せねばならず、その間めちゃめちゃに質問は分解され、サウンド化して場内に流れ出る始末。 速記嬢二人をつれ、テープレコーダーを片手に張切っていた美術手帖編集部のA氏もこれにはお手あげだった。
しかしぼくは、ハリボテ作家・小島信明と顔を見合わせてにやっとした。 こうなることは事前に知っていた。 この質問会にぼくら二人は、作品で強烈に巨匠ラウシェンバーグにアッピールしてやろうと司会者東野氏と打合わせずみで、いまやおそしと、舞台の左そでに通訳の高階秀爾氏と机をかこみ、質問状を読み上げている東野氏のサイン 「右手を二度あげる」 を待っていたのだ。
その前日、じつはラウシェン一行の突然の訪問を受けていたのである。
1964年11月28日東京青山・草月館ホール
「ラウシェンバーグ氏への公開質問会」会場での制作風景
イミテーションのOKをとる
がたがたとマンションの廊下をこちらへ近づいてくる一行の靴音に、ぼくの胸は高鳴った。 何ったって、このいまや世界画壇で飛ぶ鳥をも落す勢いの、年齢的にもぼくと七つしか違わない人気画家。 違うのは絵の値段だけだ。 ボブ(ラウシェンバーグ)が一点ニ万ドル (約八百万円) 平均、ぼくは二万円。 しかしぼくもなすがままではいない。 その年の十二月に新宿の椿近代画廊で行なう「グループ・レフト・フック」展 (田中信太郎、小島信明、吉野辰海、坪内一忠とぼく) の出品が、ベランダ前の中庭にぞくぞくと誕生していた。 なかでも大作はぼくの、椅子にすわっていても二メートル以上もあるハリボテの 「思考するマルセル・デュシャン」 の像。 ぼくはそれを眺めながら思わず微笑んだ。 やつらどんな顔をするだろう。
「カモン、プリーズ。」
靴のまま全員ダイニング・ルームに上がってもらい、すぐに飲み食いが始まる。 ウイスキーのコップを片手に各自勝手に行動してもらう。 食専門に酒専門、ときどき隣の日本間の、ぼくのおふくろの人形制作をまじめな顔でみつめている。
金ぶちのサングラスにカーキー色のジャンパー。 およそ巨匠とは思えない、いかしたヤンキー。 銀座のアイビー族が見たらすぐにでもマネしたくなるような着こなし、TPO(Time,Place,Occasion) 満点といったところか。 ウイスキーを離さないボブを連れ、ぼくは庭の作品解説だ。
(しかし内心では、ぼくのイミテーション・アートを見て怒ってなぐりかかってくるのではないかと心配した。)
頭部を回転させる 「思考するマルセル・デュシャン」 の像を無言でみつめるボブ。 前日ここを訪れたスエーデンの美術館長たちはこれを見て、頭の中に花火を仕掛けろなどと大騒ぎしたが、それとまったく対照的だ。
あくまでも無言のボブに、ぼくは次々と作品を見せて行った。 ビートルズ、ラブリー・ラブリー・アメリカ、ドン・ショランダーと四つの金メダル、エアメール、これじゃあまるでアメリカン・ポップの再現だ。 しかしさすが彼だ。 ″もっと日本独自のものを見たい″ などと腑抜けたことはぜったい言わない。
彼にとって禅の国日本などどうでもよいのだろう。 あるのはただ作品の対決だけだ。 だからぼくがいかにポップ・アートに似ていようと、いやポップそのものであろうと、彼にとっては本国アメリカに新しく生まれつつあるニュー・アートとしての同じ緊張感と競争意識が燃え立つだけだ。
「メイ・アム・イミテート・ユア・ワークス?」
出た。 取っておきの質問。 ついでに例のコカコーラ・プランを見せようかと思ったが、勇気がない。 どうせ明日の質問会で出せるだろう。
「ショーア。」
即座にOKの答えにぼくはひょうしぬけした。 なぐられるか、少なくともちょっとした沈黙ぐらいはあってよさそうなもの。 ようし、本人からOKを取ったんだからばんばんイミテーションしてやるぞ。 だが結果は逆で、ボブとの会見以後、ぼくはイミテーション・アートに興味を失ってしまったのだ。