幕末浮世絵版画に感激
ちょうど一年前の九月、小島信明、大西清自と四国徳島の四晩ぶっ通しの阿波踊りでがくがくになった腰をひきずりながら、まっ黒な顔で並木通りを歩いていた。
この年の前半のまさに八面六ピの活躍 (個展グループ展あわせて八回)
とアメリカ巡回現代日本美術展に落選したことで心身ともにくたくたとなり、さらに阿波の狂人踊りで、脳ミソまで空っぽになってしまっていた。
ふらふらっと銀座八丁目の東京画廊に立ち寄ったのだが、そこのテーブルにひろげてあったのが、主人の山本孝氏自慢のコレクション。 版画、浮世絵の中でも、幕末実際にあった残酷な事件、たとえば親殺し、三角関係の清算、子供をまきぞえにした心中、幽霊にとりつかれ のたうつ妻殺しなど、異色の絵師・芳年の筆になる、当時発禁をくらったという英明二十八選は、干天の慈雨のように乾いたぼくの脳ミソにしみ込んでいった。
よし、次はこれだ。 しかし三流の浮世絵版画のたぐいは素人の外人にはスベニールとして売られはするが、ちょっと目のきく外人は目もくれない。 しかも凄惨な赤で描いた血ばかりどくどくしいこれらは、文部省推薦の歌麿、写楽とはほど遠い。
しかし、ぼくはかつてテレビの文楽中継で見た女殺し油地獄の感動を忘れられない。 ひっくり返った油に足をとられながら、スローモーションのように、じわじわ与兵衛の匕首に殺されるお吉。 ヴェトナムのゴウ問にひけをとらない、こんな先祖をもったぼくは幸せだと思ったことがある。
1965年 個展 椿画廊
ニ千ドルのクリスマス・プレゼント
さあ制作だ。 のぼせて鼻血が出る。
発表するまでに原水爆戦争が起らなければよいが、自動車事故で死ななければよいが、と変なとりこし苦労までしながら、つぎつぎと生まれる残酷画。 九月 十月
十一月 と新宿の椿近代画廊、新橋の内科画廊、京都の 「次元65」展と矢つぎばやに発表。
そして十二月、百万円の賞金をかけた日米対抗の長岡現代美術館賞コンクールに大作三点を出品する。
だがここでもぼくは、審査員リーバーマンに再度の苦杯をなめさせられることになるのだから因縁とはおそろしい。 日本側審査員 針生一郎、中原佑介 両氏に対して、アメリカ側審査員のリーバーマソはシェイプド・カンバスのチャールズ・ヒンマンを推薦してゆずらず、ぼくの 「花魁」 の大作、高松次郎の 「影」の三つどもえで延々七時間の大論争。 大雪の中、長岡現代美術館に集まった公開審査会の聴衆を前についに一等なしと決定。 ヒンマン、高松で五十万円ずつ分け、ぼくは選外となったのである。
「ついてない年に悪あがきは禁物」 といったおふくろの言葉が忘れられない。
だが十二月二十七日、ついていないと思われたこの年の最後の三日にどんでん返しが仕組まれていた。 シカゴのコープレー財団が賞金二千ドル (七十二万円)のチェックを送ってよこしたのである。 ぼくを優秀な美術家としてデュシャン翁が推薦してくれたのだ。
ある日、家に帰ると、おふくろが驚いたことに英語の字引を手に、老眼鏡をつけて必死に何かを読もうとしている。
「何だっ それ。」
「ちょっと、変なものが来ているんだよ。」
見たこともない紙きれが二、三枚とエアメールの判。
「どうせ、ハイレッドセンターの誰かのイタズラだろう」
事実この種のいたずらは多い。 新幹線のキップそっくりの案内状。 まちがって駅の窓口にもって行ってどやされ、その時は警察が来た。
"あなたは広大な土地を所有しました" とあるから何処だと思ったら火星だった。
葬式の葉書が来る――案内状だ。
1965年 個展 内科画廊
しかし小切手と一緒にそえてある紙に、
『貴殿のアート界に対するアチーブメントに対して与える』
とある。 しかもこの財団の顧問とやらがマルセル・デュシャンをはじめとして、そうそうたるもので、中に鬼よりにくい例のウイリアム・リーバーマソの名前を見つけた時には、ひょっとしたらと考えなおし、すぐ銀行に走った。 思えば、渡米寸前の東野芳明氏に渡した一枚の作品写真が、一万円札七十二枚を持ち帰るとは。
″これだから絵は止められねえ″
コープレー財団より
銀行の応接間は、時ならぬ珍客で騒々しい。 七十二枚の一万円札を中心に父、叔母、そしてぼくが三つどもえで奪い合っている。
五万円ずつ入れた、内祝と書いた親戚にくばる袋が四つ、ふだんめいわくをかけっぱなしなので、この時とばかりはずんでいる。
おやじは長年ふんだくられた絵具代とばかり二十枚、叔母は叔母で、なんとかかんとかいいながら、どんどんわしづかみにしてはなさない。 あきれた銀行員は、
「少しでもよいから、おあずけになさったらいかがです。」
と心配顔だ。 やっとの思いで半分は確保したぼくは、まっすぐ画材店に向かっていた。
花魁シリーズの大個展が二週間あとにせまっているのだった。
凧 1966年 現代美術の新世代展 (国立現代美術館)
「何んだ、その着方は。」
一番に入って来た岡本太郎氏は新調のタキシード姿でしゃっちょこばっているぼくを見るなりどなった。 何たって生まれてはじめてなんだから仕方がない。
「はじめからやりなおしだ!」
また控室にもどって、太郎氏じきじきに着方を教わる。
シャツ、カフス、ズボン吊り、エナメルの靴に、靴下、ハンカチまで真新しい。 五分前まで破れたジーパンに、ジャンパー、ハダシで必死の飾りつけだったのだ。